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2005年12月22日 (木)

東浩紀 裏波状言論メモ

2005年12月17日に三省堂書店神田本店にて、
『波状言論S改』出版記念で行われた
東浩紀トークショー(聞き手:福嶋亮大)のメモ。
都営新宿線の車中で腹痛になり30分程遅刻した為、冒頭の記録はなし。
ised(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)議事録
途中までしか読んでない。

kwktさんも参加されてたようなので、
もっとちゃんと纏まった物が出るのではないでしょうか。なんて。

前回同様、 [緑字] は私による補足。
意味や根拠を掴みきれたかが殊に心配な所は茶色

[ここより前はなし]
 マイノリティの問題などは、今の日本の20代、大学生にはなかなか見えない。
 すると、デリダやドゥルーズを読んだとしてもピンと来ない。
 そうなってくると議論の精緻化くらいしかやる事がない。
 リベラリズムについても同じような所あり。
 だから、自分の言説が「大学院志望の知的モラトリアム学生」向けで
 日本人に受け取る素地などない、という[浅羽通明の]批判は正しいと思うし、
 その点は北田暁大も同意するではないか。
 こうした精緻化、知の保守化が行われる大学みたいな所とは
 別の所でマイノリティの問題は起きている。

・どういう社会にするかのビジョンを再構築する事は重要。

・精緻化には飽き飽きしている。何故このような事を論じるのか、を考えたい。

 Q. 社会のビジョンについて。
 isedでも述べていたが、島宇宙化した集団同士が上手に棲み分けて
 大きな衝突が起きない様にするしかないのでは?
A.
・ised倫理研のネタとしては例えば「公共性」や「監視」なんて物がある。
 公共空間は必要だと思うし、監視社会には反対。
 だが、どうして公共性が必要なのか?
 どうして監視はダメなのか?をキチンと考えないとまずい。

・所有権の基礎は身体の自己所有性にある。[森村進『自由はどこまで可能か』に書いてあった]
 かといって、自分を特定できる情報まで完全に制御しようってのは変。
 個人情報の統御の概念は、
 国家等が自分のどんな情報を集めているかを
 開示させようと云う運動の下で生まれたので、
 現在とは背景が異なってしまっている。
 レッテル貼るみたいに監視社会は全くダメ!
 と言える状況では最早ないという事。

・同様に、ネオリベラリズムはイカンと皆は言うけれど、
 それが生まれるには十分な理由があった。
 即ち、大きな政府指向の如き手法で失敗したからこそ、
 自己責任とか小さな政府指向のネオリベラリズムが出現した。
 そこを忘れてただダメだ!と言ってもしょうがない。

・「国家」が担ってきた機能はこれからは私企業が担う流れがある。
 GoogleやAmazon、またmixiのようなSNSは
 一私企業のサービスに過ぎないにも関わらず、
 既にインフラ的側面を備えている。
 それを踏まえた上で「自由とは何か」という問題を
 考え直さねばならないだろう。

・『中央公論』連載時の『情報自由論』は、旧来の左翼的語法を踏襲している。
 しかし、その語法では捉えきれないものがあるしそちらに注目したいので、
 最近は努めてそこから外れるようにしている。
 isedの議論を見ても初期と最近とでは言葉がだいぶ異なっている筈。 

Q. 『情報自由論』でも旧来の左翼的言説の語り口からは異なっていると思うが。
A. そうなんだけど、もっと違ってないとダメ。

・自分の出身小学校はRFIDタグを使って児童の「見守り」実験を初めて行った所。
 この辺りは東急が分譲した土地で、
 道幅は広くて死角は少ないし、狭い路地もない場所。
 にも関わらず、電柱一本当たり一人の高密度で見守りボランティアな人が居た。
 また、校外の公道から校舎の写真を撮っていたら直ぐに追い出される始末。
 この事態はリベラリズムどうこう関係なくおかしい。
 ちょっと考えればやり過ぎだと解るはずなのに
 コミュニティ内での相互監視がヒートアップしてる。
 また、企業が売らんが為に不安を煽っている面もある。

 ちなみに最近ではIEEE802.11b規格の安価なタグに変更したらしい。
 電波出てるだろうし、害意を持つ者がPCを使って魚群探知機みたいに
 「おおぅ、子供いるいる」とやるんじゃないかな?

・ある時代の常識が別の時代には全く異なっている。
 それを明らかにしていくのも知識人の役目か。
  [cf. 計算可能なリスクと計算不可能な気分@IT-PLUS
   2005年のいま、この本[村上春樹『アンダーグラウンド』]を読んで印象に残るのは、
   テロの悲惨さというよりも、むしろ被害者の(いささか不謹慎な表現になってしまうが)
   楽観的な状況認識である。
]

Q. メタゲームについて。
 メタとベタの二重態に関しては以前から論じている一方で、
 近年メタゲームを止めるベタに関して論じているようだが?(認知限界など当にベタ)
A. 「人間=メタ(神〜超越論的)とベタ(動物〜経験論的)とが
 繋がったクラインの壷の如き物」と西欧思想は捉えてきた。
 が、それはレトリックに過ぎないと思う。
 つまり、人間は或る時は動物、また或る時は神とスイッチしてるだけで、
 この二つが統合できているわけではない。
 故に、際限なく続くメタゲームや、ベタへの耽溺を止める何かを人間が備えてる訳ではない。
 にも関わらず、西欧の思想では止めるメカニズム(弁証法など)があるのだ、としてきた。
 そのごまかしを看破し、「そんなのはない」と宣言したのがフーコーだと思っている。

・最近、リバタリアニズムに興味を持っている。
 リバタリアニズムは人間を「モノ」扱いするから。
 ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』が出たのは1970年代[松岡正剛の千夜千冊No.449]
 認知限界の概念の登場も同じ頃。
 フーコーの活躍がその少し前。
 この時期に人間をモノとして扱う思想の拡大(人文科学から認知科学へ)があった。
 だから、フーコーら68年思想家の言葉を
 自分はレトリックとしてではなくて、文字通りに受け取って論を進めたい。

Q. 東氏の「ベタ」には、認知限界のような「ベタベタのベタ」と
 ファウスト連載で論じている「ベタ」との二つがあるように思われるが。
A. 「一回性」について語ってしまうのは自分の弱点。
 文芸批評家としてやってしまう。そんな「一回性」なんてある筈ない。
 ノベルゲームでは「この一回限りを大切にしよう」という思い(ベタ)と
 「これもシステムの供給するシナリオの一つだ」という自覚(メタ)が統合している。
 先ほどメタとベタの統合はあり得ないと言ったが、
 こういったゲーム的な統合/接続/隣接は可能。
 ここに自分の関心がある。

これは偶然性の問題にも繋がる。
 例えば交通事故に遭って身体に重篤な障碍が残った場合。
 それは当人にとっては大事件だが、統計的に見ればよくある事に過ぎない。
 「物語」とはこの二つを統合しようとする所に生まれる。
 だが、現在は、その「よくある事だよね」という視座に否応無く置かれてしまう。

Q. 『波状言論S改』では、偶然性やリベラリズムを擁護し辛い時代に
 どうやって擁護するかと論じていたのに、isedでは偶然性の縮減しようと言っている。
 これらは矛盾だと思っていたが、今の話を聞いて実は矛盾してはいない、と思えてきた。
A. [この節は即いていくのが大変だったので殊に間違いが多そう]
 ・西欧哲学では不自由な経験的領域と自由な超越的領域という捉え方をしている。
 が、自分は逆ではないかと思う。
 今や「人間性」「自由」がベタの世界≒データベースによって担保され、
 一方でコミュニケーションが不自由になっている。

・因みに、『動物化するポストモダン』では
 「オタクが動物化している」とは一言も述べていない。
 「オタクは解離的になっている」と述べている。

Q. メタ的な視線を持つが故の不自由/ニヒリズムを感じるのだが、どうしたらいいのか。
A. 目的がない為にニヒリズムに陥る。
 だが目的がないのはポストモダンの時代に生まれた人間の運命。
 しゃあない。

・だから、『限界の思考』の帯や『責任と正義』に書かれている
 「メタな視点を得る事により自由の領域を拡大せん」
 といった北田暁大の主張は、身体的に信じられない。

・メタに立つからこそ得られるオルタナティブや確率や統計性への思いが、
 ベタな行為に繋がるという話は
 柄谷行人のいう「単一性」とは違う事を言っている筈なのだが

Q. 最近になって韓国と合衆国に行ったが、何故この時期に?
A. 依頼が来たから。

韓国のは、宣氏と李氏も講演した「第3回青江国際漫画セミナー」だが、
 聴衆は本質的な部分は理解してくれたと思う。
 そして、ブログにも書いたが、女性の多いこと!
 なんで日本で講演をすると男ばかりなんだ!
[すいません]
 自分だけじゃなく、北田氏がやっても宮台氏がやっても
 聴衆の殆どが男という日本の状況は変。
 少女マンガ論を書いてもやおい論を書いても読むのは男。
 どうしてなんだろう。

・また、これもブログに書いたが、
 韓国では宮台真司も大澤[真幸?]も大塚[英志?]福田[和也?]
 ほとんど知られていない。

合衆国のは、Japan Societyの創立○○年記念イベント。
 合衆国と日本との人のネットワークを広げよう、という企図で、
 文化人代表として東浩紀と交響詩篇エウレカセブンの佐藤大が呼ばれた。

・合衆国も韓国同様に日本の現在の知識が全くなかった。
 『嫌韓厨』がバカ売れして、Koreaバッシングの嵐が日本で吹荒れている、
 とNew York Timesで取り上げられたりして、
 Japan Societyの人にも「日本は大丈夫なのか」と心配された。
  日本にいれば『嫌韓廚』の受容のされ方が、
 「ネタ」的、2ch的な「繋がりの社会性」だと説明できるけれど、
 そのコンテキストが海外では全くない。説明の道具が何も無い。
  宮台、福田、大塚を頂点にした三角形を書いてマッピング[三元相図みたいな?]
 すればはい出来上がりだと思うんだけど、誰もやらない。

・全く宮台の事を知らない人に彼の事をどう説明する?
 天皇主義で、亜細亜主義で、「思想塾」という私塾を開いてる。
 怪しい!「なんだコイツ?」って感じですよ。

Q. Douglas McGrayと議論したようだが、どうだった?

A. 彼は日本でのGNC(Gross National Cool)の受け取られ方に辟易している。
 元々は「文化は国家の思惑とは無関係に拡散する」って話だったのに、
 コンテンツ産業育成諮問機関みたいのにアドバイザーとして
 喚ばれたり参っちゃうよ、との事。
 また、迷惑してるけど、もう反論したり関わりたくない、とも言っていた。
 同情はするけど、それはまずい。
  日本では既にGNCは或る形で受容されていて、
 大塚英志の『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』なんて明らかに
 McGrayを仮想的に据えている。
 それなのに、「もうそんなの知らん。本業じゃないし」はイカン。
  また、McGray自身も自覚はあった(それ故に複雑なのだが)けれど、
 欧米での日本のポップカルチャーの受容は、単なるオリエンタリズム。

・でも海外が一方的に悪いのでは決して無い。
 クロアチアのアニメサークルが、
 日本のアニメの上映会をやるてんで観に行った所、冒頭に
 「日本の出版社に何度も連絡したけど梨の礫だったから
 仕方なく[fansub付きの?]海賊版を作りました」
 みたいな文が日本語とクロアチア語で出てきてびっくりした、
 と伊藤穣一から聞いた。
  日本のクリエイターや出版社は国内の事しか考えてない。
 大塚英志もそうだし、自分自身もそうかもしれない。

・日本と合衆国とで人脈作る、なんていうと学者同士になりそうだけど、
 そうならないようにしたい。

(会場からの質問に答えて[質問は略]
[今回は会場に連れてきたけど]子供とどう付き合うかはまだあまり考えてない。

・波状言論は今年は休止だった。来年は何かやるかもしれない。告知します。
 『動物化するポストモダン2』は来年には出る。

・ラノベ「ブーム」はそろそろ終わりかな。
 今夏のコミケットで配布したインタビュー[pdf版はこちら]
 でも既に「終わった。後はみんなで何とかしてね」と述べていたし。
 当時は「おいおい、祭が終わったなんて言っちゃってるよ」な受け取られ方だったけど。
 現在色んな人が参入している「ラノベ批評」は、五年後には消滅しているかも。
 ライトノベルに限らず、既存の物に対するオルタナティブを打ち立てる運動が
 後世に何を残せるかは、事後的に評価されるしかない。
 だから、『ファウスト』も勢いあって皆が注目してる今はいいけど、
 もし『ファウスト』がなくなったらどうするのか。
 それでも書く者がいるのか。
 ゼロ年代に興ったライトノベルは、既存の文芸と違った何らかの「場」を確立して遺せるのか。

・自分の仕事も二つ層に分けられる。
 一つは文芸論。
 もう一つはシステム論。
 斎藤環には精神分析を入れないと、と言われるが、
 精神分析をシステム論に入れてもなあ。

・映画に対する宮台真司の社会学的語り口に、
 既存の映画批評を指向する人が反撥を覚えるのは解る。
  映画について直接語る事はできないので、
 文芸批評に置き換えると、村上春樹や吉本ばなながデビューを契機に
 日本の文芸はもっと「開かれた」物になる可能性を持っていた。
 しかし、柄谷行人や浅田彰は彼らの小説を評する際に、
 旧来の文芸批評的言説を生存させるようなやり方を選択した。
 単一性[?]を表現するのは村上ではなく中上だ、のように。

うーん…聞いた時にはスルッと入ったようで、
後からメモ帳を見ると???なのは…

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 「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 読みました。  全体の約8割程度を占める前段部分は退屈でしたが、後半の問題の指摘(この部分こそが「なぜ敗れるか」を示している)はさすがに業界内部の人だけあり、非常に興味深く読みました。  そもそも業界市場の規模はともあれ現実にはほとんどまともに成立していない市場というのがもともと私の見解で、それはアニメーターの大部分は生活保護レベルの所得しか得ておらず、普通... [続きを読む]

受信: 2005年12月28日 (水) 08:58

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